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平宗盛をNHK大河ドラマの主人公に!~平宗盛大河プロジェクト~

平家物語では散々な扱いを受けている、清盛の三男坊、平宗盛にスポットを当てたブログ。いつの日か、大河ドラマ化されるといいね。

地学的に考える、平安時代に六波羅が急速に発展した理由

宗盛醒酔記で、保元の乱を扱った際に、平安末期に六波羅一帯が加速度的に発展した理由について扱ったサイトが面白くて参考になったので、紹介します。

保元の乱について、併せて『保元物語』の〈放免〉

なんというか、歴史的事実と、地学的な考察、というこの理系と文系がクロスする感じ、学際的な感じが知的好奇心を刺激しますね。

あまりに目からうろこだったので、メモがてらまとめたいと思います。

平安京遷都当初は、平安京の東側(左京)は、洪水続きだった

平安京の遷都は延暦13(794)年、桓武天皇(平氏の祖ですね)が何かと縁起が悪いと評判の長岡京を捨てたことにより行われました。

当初はまさに碁盤の目の通り、大小の通りがたて横に並び、キレイに区画整理されてました。

(画像は平安京のwikipediaより)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/4/43/Heiankyo_landsat.jpg

これを見ると、赤く囲んである平安京の領域の東側(右)に、一つ川が流れているのが見えます。これがあの有名な、鴨川です。(左側に見えるのは桂川)

基本的に、この時代の都市計画担当者の頭の中には「いかに風水的にみて良いか」ということしかありません。従って、防災の観点とかは全く無視されています。

ですから、平安京東側(左京)と、その川向(のちの六波羅一帯)は、鴨川の相次ぐ洪水に悩まされ、西側(右京)は、桂川沿いの湿地帯ということから、ほとんど発展しませんでした。ダメじゃん平安京。

鴨川の地形が都の発展の形勢を変えた!

ところが、平安中期(11世紀)ごろから、鴨川の河床が徐々に下がり始めます。これによって、左京と鴨川の間に「高低差」ができます。(ここブラタモリ好きな人ならわかるはず。いわゆる「河岸段丘」の形成です。)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a2/FluvialTerraces.jpg

(※wikipediaの河岸段丘の項目より)

つまりは、左京側の方が鴨川よりも高くなるので、鴨川に洪水が起きにくくなるのです。左京チャンス!この時期以降、平安京の左京と、さらに東側の発展が始まります。(相対的に右京の寂れは加速します。)

白河院登場!

11世紀末、応徳三(1086)年、あの白河天皇が、実子の堀河天皇に位を譲ります。

この後は隠居もしてゆっくり・・・かと思いきや、そうは行きませんでした。

父に逆らってまで位を継がせた堀河天皇が29歳の若さで崩御、続く鳥羽天皇はまだ5歳、摂関家も、摂政忠実が頼りなく、結局白河法皇が政治の実権を握るようになります。院政のスタートです。この時法皇55歳。

政治の実権は握りますが、天皇ではないので、御所には戻れません。しかし天皇と同等かそれ以上に仕事をしないといけないので、スタッフも大勢必要です。

広い場所で、都から近くて・・・開発が進んでない・・・あ、鴨川の東があるじゃないか!ということで、鴨川の東、白河の地に「白河北殿」を大々的に造営します。(なお、都の南端からさらに南3キロに鳥羽離宮も作りますが、白河の方が近いです。)

 

平家と六波羅団地

院が、鴨川の東に実質的な政庁を作る、ということは、その院の近臣たちも集まってくるようになります。

平家発展の足掛かりを作った平正盛(宗盛の曾祖父)は白河院のお気に入り。

彼は白河の南、六波羅に邸と、お堂(常光院)を構えます。これが平家と六波羅のつながりの始まりです。

続く忠盛の代までは一町(1ヘクタール)程度の規模だった六波羅の邸ですが、清盛の代で急拡大、最大で一族郎党合わせて数千軒の住宅が集まったということです。これを、建築史学者の太田静六氏は「六波羅団地」と呼んでいます。

 

寝殿造の研究

寝殿造の研究

 

この六波羅団地の規模ですが、先日の記事でも参考にしたブログさんからの引用ですが、こんな画像で表されています。すごくわかりやすいです。

http://blog-imgs-43.fc2.com/3/d/k/3dkyoto/20120208091034363.jpg

宗盛の家はどこ・・・?泉殿をそのまま使ったのでしょうか?

 

その後の六波羅

隆盛を誇った六波羅でしたが、寿永二(1183)年の平家都落ちの際、逃げる平家が六波羅をすべて焼き尽くしてしまい、その後の鎌倉幕府では六波羅探題が置かれるなどしたため、ほとんど当時の面影は残っていません。

当時を伝える遺構といえば、六波羅の北にある建仁寺に、平重盛邸の門が移築されているぐらいのようです。

遺構はほとんどのこりませんでしたが、実は地名に、当時をしのばせる町名があります。例えば、当時六波羅があった場所に、現在池殿(頼盛の通称)町や、門脇(教盛の通称)町などの地名が残っているのです。

なお、鴨川の河床は、15世紀の室町時代ごろから土砂の堆積により再度上昇したため、鴨川沿岸は再び洪水に襲われるようになりました。

鴨川周辺が洪水から解放されたのは、20世紀の後半以降の大規模なしゅんせつ(川の掘り下げ)工事以降ということです。

まとめ

というわけで、六波羅やその周辺が発展した理由とその後をまとめるとこんな感じ。

・遷都当初の鴨川東岸(のちの六波羅)は洪水続きで、開発が進まなかった。

・11世紀ごろから地形が変化し洪水が起きにくくなり、11世紀末~12世紀初めの白河院政期に、鴨川東岸に院庁が整備された

・その院に仕える平家が、院庁に近い六波羅に邸宅を構えるようになり、最盛期には平家による住宅地を形成するも、源平争乱や、その後の戦乱で焼失し、院政期に建てられた寺院もろとも、ほとんど姿を消した。

結論

平家について調べていたら、なぜか地学のお勉強にすり替わっていたでござる