宗盛醒酔記 第六話「宗子と時子」掲載しました&+苗字と名前についてのお勉強
平宗盛を主人公としたプチ大河小説(どっち?)、宗盛醒酔記の第六話をアップしました。
今回の裏話
今回も、前話から引き続いて宗盛の元服と、それに伴う諱づけについてのお話になってます。この話はあらかじめ書き溜めておいたエピソードなのですが、今回掲載するにあたって、さらなる時子の野望へとつなげる書き方へと改めました。
元々、鳥羽法皇の親王時代の名「宗仁」から一時拝借したのが、宗盛の名の由来ではないかと勝手に推測していましたが、時子はさらにもっと大きなことを考えているようです。
苗字と姓、仮名と諱の違い
ところで、皆さんの氏族はなんですか?
……といっても、もうわからない人は多いかもしれません。私自身、源平藤橘のどれなのか、はたまた全然違うのか、分からなくなっています。
元々氏族とは、先祖を同じくする集団に対して与えられている名前のことで、今挙げた源平藤橘の他に、古くや物部氏、蘇我氏、道真でおなじみ菅原氏などがあります。
この人たちが、どんどん枝分かれして、子孫を増やしていくのです。
最初のうちは、みんな親戚同士ということでよかったのかもしれませんが、平安時代も末期になると、徐々に混乱が発生します。
源義経は二人いた?
例えば、源義経が同時代に二人存在したこと、ご存知でしょうか?源氏といえば先祖代々「義」の字を使うのが決まりですから、名前がダブることも当然起こりえました。
もう一人の「源義経」は、混乱を避けるためか、本拠地の地名をとって「山本義経」と名乗っています。こういう経緯で生まれたのが「苗字」なのです。
同じ源氏で見ると、信濃国木曽にいる源氏の義仲さんが「木曽義仲」、甲斐国武田にいる源氏の義信さんは「武田義信」と名乗るようになっていきました。
ただこれはあくまで便宜上のものなので、朝廷など公の場では、苗字ではなく、本姓を名乗るのが決まりでした。
九郎義経の「九郎」って?
今回の宗盛醒酔記では、宗盛の「諱」を決めよう!と言っていましたが、諱というのは、「忌み名」とも呼ばれており、この諱で呼びかけることは、失礼に当たります。
しかし、名前を呼ばないわけにはいきません。役職がある人なら、役職で呼べばよい(大臣殿とか、新中納言)ですが、役職のない人は呼びようがありません。そこで使われるのが仮の名前「仮名(けみょう)・通称」です。
再び源義経を例に出すと、彼はよく「九郎」と呼ばれることがありますが、この「九郎」が、仮名(または通称)です。
その一方で平家の人々の幼名、通称が残っていないのは、幼いうちに官位をもらってしまうこと、摂関家ほど記録が細かくなかったことが原因と思われます。(摂関家だと、悪左府頼長は菖蒲若(あやわか)という記録が残ってます。かわいい名前。)
ちなみに、今でも我々日本人は、偉い人のことを下の名前では呼びません。例えば安倍総理のことを「晋三さん」と呼ぶでしょうか?普通なら「総理」、「安倍総理」と呼ぶはずです。
未だに当時の感覚が、我々には残っているわけです。
さ~て、次回の宗盛醒酔記は~
宗盛です。母時子が、なんか無茶なこと考えてて焦ります。時忠おじさんもなんかノリノリで気持ち悪いです。とりあえず、元服の儀式まで練習続きでうーんざり。なんで武士の息子になんか生まれちゃったんでしょうね~。
来週の宗盛醒酔記は
・宗盛どんびき
・時子野望を語る
・清盛、蚊帳の外
の三本です。
それでは次回もみてくださいねー。じゃん・けん・ぽんっ!✌
地学的に考える、平安時代に六波羅が急速に発展した理由
宗盛醒酔記で、保元の乱を扱った際に、平安末期に六波羅一帯が加速度的に発展した理由について扱ったサイトが面白くて参考になったので、紹介します。
なんというか、歴史的事実と、地学的な考察、というこの理系と文系がクロスする感じ、学際的な感じが知的好奇心を刺激しますね。
あまりに目からうろこだったので、メモがてらまとめたいと思います。
平安京遷都当初は、平安京の東側(左京)は、洪水続きだった
平安京の遷都は延暦13(794)年、桓武天皇(平氏の祖ですね)が何かと縁起が悪いと評判の長岡京を捨てたことにより行われました。
当初はまさに碁盤の目の通り、大小の通りがたて横に並び、キレイに区画整理されてました。
(画像は平安京のwikipediaより)
これを見ると、赤く囲んである平安京の領域の東側(右)に、一つ川が流れているのが見えます。これがあの有名な、鴨川です。(左側に見えるのは桂川)
基本的に、この時代の都市計画担当者の頭の中には「いかに風水的にみて良いか」ということしかありません。従って、防災の観点とかは全く無視されています。
ですから、平安京東側(左京)と、その川向(のちの六波羅一帯)は、鴨川の相次ぐ洪水に悩まされ、西側(右京)は、桂川沿いの湿地帯ということから、ほとんど発展しませんでした。ダメじゃん平安京。
鴨川の地形が都の発展の形勢を変えた!
ところが、平安中期(11世紀)ごろから、鴨川の河床が徐々に下がり始めます。これによって、左京と鴨川の間に「高低差」ができます。(ここブラタモリ好きな人ならわかるはず。いわゆる「河岸段丘」の形成です。)
(※wikipediaの河岸段丘の項目より)
つまりは、左京側の方が鴨川よりも高くなるので、鴨川に洪水が起きにくくなるのです。左京チャンス!この時期以降、平安京の左京と、さらに東側の発展が始まります。(相対的に右京の寂れは加速します。)
白河院登場!
11世紀末、応徳三(1086)年、あの白河天皇が、実子の堀河天皇に位を譲ります。
この後は隠居もしてゆっくり・・・かと思いきや、そうは行きませんでした。
父に逆らってまで位を継がせた堀河天皇が29歳の若さで崩御、続く鳥羽天皇はまだ5歳、摂関家も、摂政忠実が頼りなく、結局白河法皇が政治の実権を握るようになります。院政のスタートです。この時法皇55歳。
政治の実権は握りますが、天皇ではないので、御所には戻れません。しかし天皇と同等かそれ以上に仕事をしないといけないので、スタッフも大勢必要です。
広い場所で、都から近くて・・・開発が進んでない・・・あ、鴨川の東があるじゃないか!ということで、鴨川の東、白河の地に「白河北殿」を大々的に造営します。(なお、都の南端からさらに南3キロに鳥羽離宮も作りますが、白河の方が近いです。)
平家と六波羅団地
院が、鴨川の東に実質的な政庁を作る、ということは、その院の近臣たちも集まってくるようになります。
平家発展の足掛かりを作った平正盛(宗盛の曾祖父)は白河院のお気に入り。
彼は白河の南、六波羅に邸と、お堂(常光院)を構えます。これが平家と六波羅のつながりの始まりです。
続く忠盛の代までは一町(1ヘクタール)程度の規模だった六波羅の邸ですが、清盛の代で急拡大、最大で一族郎党合わせて数千軒の住宅が集まったということです。これを、建築史学者の太田静六氏は「六波羅団地」と呼んでいます。
この六波羅団地の規模ですが、先日の記事でも参考にしたブログさんからの引用ですが、こんな画像で表されています。すごくわかりやすいです。
宗盛の家はどこ・・・?泉殿をそのまま使ったのでしょうか?
その後の六波羅
隆盛を誇った六波羅でしたが、寿永二(1183)年の平家都落ちの際、逃げる平家が六波羅をすべて焼き尽くしてしまい、その後の鎌倉幕府では六波羅探題が置かれるなどしたため、ほとんど当時の面影は残っていません。
当時を伝える遺構といえば、六波羅の北にある建仁寺に、平重盛邸の門が移築されているぐらいのようです。
遺構はほとんどのこりませんでしたが、実は地名に、当時をしのばせる町名があります。例えば、当時六波羅があった場所に、現在池殿(頼盛の通称)町や、門脇(教盛の通称)町などの地名が残っているのです。
なお、鴨川の河床は、15世紀の室町時代ごろから土砂の堆積により再度上昇したため、鴨川沿岸は再び洪水に襲われるようになりました。
鴨川周辺が洪水から解放されたのは、20世紀の後半以降の大規模なしゅんせつ(川の掘り下げ)工事以降ということです。
まとめ
というわけで、六波羅やその周辺が発展した理由とその後をまとめるとこんな感じ。
・遷都当初の鴨川東岸(のちの六波羅)は洪水続きで、開発が進まなかった。
・11世紀ごろから地形が変化し洪水が起きにくくなり、11世紀末~12世紀初めの白河院政期に、鴨川東岸に院庁が整備された
・その院に仕える平家が、院庁に近い六波羅に邸宅を構えるようになり、最盛期には平家による住宅地を形成するも、源平争乱や、その後の戦乱で焼失し、院政期に建てられた寺院もろとも、ほとんど姿を消した。
結論
平家について調べていたら、なぜか地学のお勉強にすり替わっていたでござる
宗盛醒酔記 第五話「元服」掲載しました&解説
宗盛醒酔記 第五話「元服」を掲載しました。
今話は元々書き溜めておいたエピソードだったので、前回からあまり間を開けずにすぐ更新できましたね。
しかし、三話と四話の間が空きすぎたせいで、すっかりアクセス数が下がってしまいました。あまり需要ないのかなぁ。源平時代自体、マイナーだしなぁ。(※それを解決するためのブログです。)
今回の裏話
今回のエピソードは、宗盛の元服に絡んだ話です。正直当時の武家の元服の作法がよくわからず、そこら辺の描写は、あやふやであります。鎌倉時代の資料ならあるかもしれませんが、平家はもう少し都風だろうと思いますし・・・。
あと、個人的にどうして宗盛は「宗盛」なのかなぁ?ということが気になってたので、次回六話では私なりの見解を披露してみたいと思います。
ちなみにエピソードを更新してから、非常にわかりやすい論文を見つけてしまいました。備忘録的に、リンク貼っておきます。
なお宗盛の子、清宗は、なんとわずか一歳で殿上人になってます。この頃の平家は摂関家をしのぐ勢いです。一歳ということは、当然元服などしてないので、叙位任官と、諱の名づけと、元服は、セットではなかったようです。
いやぁ、勉強になりますね。(一回、源平時代の○○調べるならココ!っていうリンク集をまとめたいです。)
さ~て!次回の宗盛醒酔記は?(サザエさん風に)
清三郎改め宗盛です。私の元服に際し、母時子がはじめに父清盛に提案したのは、自らの一族にゆかり深い「時盛」という諱(いみな)でした。
これには、母の一族挙げて、私を盛り立てていくという意味が隠されていたのですが、あまりに露骨すぎ、父に嫌われてしまいました。
そこで、母が考えたのは、祖母池禅尼の俗名「宗子」にちなんだ「宗盛」でした。自らの名に肖り、私が元服すると知り喜んだ祖母ですが、母の狙いは、別のところにありました・・・。
次回もまた読んでくださいね~!
ンガング・・・(唐果物(からくだもの)をのどに詰まらせる)
宗盛醒酔記 第四話「足手まといの清三郎」掲載しました&解説
宗盛醒酔記第四話「足手まといの清三郎」、前話から約2週間ぶりの掲載です。
前話から結構時間が空いてしまいましたが、途中別作品(平家芥虫騒動)を急に思いついて書いたのと、某所での「まず最終話を書け」というアドバイスを受けて、最終話となるべき宗盛の処刑シーンを書いてたので、別にほったらかしてたわけではないです。
それにしても、何かだんだん情けない展開になってきましたね。兄の基盛に馬鹿にされたり、満座の前で笑われたり・・・これは歪みますわ・・・。これがどうやって将来、日本最初のイクメンに成長するのか、今のところ全くノープランw
ちなみに、前回、今回と、保元元(1156)年に起きた保元の乱の前後を描いてますが、保元の乱は、この戦だけを切り取った「保元物語」という物語が作られるぐらい濃い戦で、三年後の平治の乱と並んで、平安末期の都に非常に大きな衝撃を与えています。
なお、特に第四話の作成には、保元物語の現代語版を載せているサイトがあったので、大いに参考にさせていただきました。(調子乗りの基盛兄や、清盛の動きについての事実関係を補足。さすがに幼い宗盛がバカにされるだけの話だと寂しいし…)
この後の宗盛醒酔記ですが、いきなり平治の乱に飛ぶわけではなく、宗盛の元服と、「どうして宗盛になったのか?」ということに迫ります。
平宗盛と今川氏真、どうして差がついたのか…慢心、環境の違い
実は私は源平時代よりも前から、戦国時代が好きでした。きっかけは歴史SLGの信長の野望から。
実は織田信長にはたくさんの兄弟や子供がいたことも、このゲームで初めて知ったし、武将たちに割り振られた能力値から、その武将の人となりまでが想像できた。
そんな中で、すべての能力値が極端に低く、とにかく使えない武将がいた。
それが、今川氏真である。
今川氏真と平宗盛、こんなに似ている
今川氏真のすごいエピソードは、上記のリンク記事に譲るとして、彼は当ブログの主役、平宗盛とタメを張る、歴史上最高の「愛すべきダメ坊ちゃん」の資格を満たす男なのだ。
お父さんの代で勢力を急拡大
今川家も、平家も、元々名門である。今川家は元は源氏で、あの足利氏から枝分かれした名族。そして平家も、桓武天皇(平安京を作った人ね)の血を引く名門である。
そして、今川氏真の父である義元は、混乱した今川家を統一し、武田、北条と三国同盟を締結して後顧の憂いを断ち、西方向に集中することで、三河(愛知県東部)の徳川家を従属させ、次は尾張(愛知県西部)・・・と順調に勢力を拡大していった。
宗盛の父、清盛も、弟家盛との家督争い(家盛が死んだだけだが)に勝ち、院や帝、摂関家や有力貴族と結んで勢力を急拡大。最盛期には全国の半分が、平家の知行国となった。
偉大すぎる父の下で
今川氏真は、桶狭間の戦い(1560年)で父義元が討ち死にしたことで急に後を継いだイメージがあるが、実際にはその前から既に家督は氏真に移っており、楽市・楽座の原型など、独自政策を行っていた。
平宗盛も、1181年の清盛の死の前から既に、平家の棟梁としてふるまっている。というか、清盛は1169年時点とかなり早い段階で福原に隠居しており、形式上は、兄重盛⇒宗盛へのリレーということになる。
バックアップはやっぱり身内・・・
父を亡くした氏真と宗盛を支えたのは、どちらも血縁者。
氏真の場合は、祖母の寿桂尼が、宗盛の場合は、母の時子と、叔父の時忠が、頼りない本人をバックアップしていた。
ただし、どちらも衰退をくいとめることはできなかった。
親父の仇への対応
この二人、親父の仇への対応も良く似ている。
氏真の親父の仇はご存じ織田信長。彼は信長の前でいわれるがままに蹴鞠を披露したり、贈り物を贈るなど、媚び売りまくり。
宗盛の親父の仇?は源頼朝。彼も壇ノ浦の戦いののち、鎌倉の頼朝の元まで連れてこられ、頼朝の前で命乞いをして、あきれられている。
しかし二人の結末は大いに異なっていた
ここまではよく似た二人だが、最終的に天寿を全うしたのは、氏真だけだった。
氏真は、父の死から9年後の1569年、本拠地掛川城を明け渡す形で、戦国大名の座から転落。事実上の滅亡となる。
宗盛も、父の死から4年後の1185年、壇ノ浦の戦いで、一族の主だった人々が全滅し、こちらも事実上の滅亡となる。
しかし氏真は、その後もしたたかに生き残り、徳川家康の死を見届けるかのように、78歳で亡くなっている。
宗盛は、壇ノ浦の戦いのわずか3か月後に、39歳の若さで死罪、獄門となっている。
二人の最大の違いは・・・
二人の最大の違いは「ジタバタしたか、しなかったか」ではないか。
氏真の場合は、家康が攻めてきた背後から、さらに武田信玄が家康を狙っており、この状況で家康と氏真間の講和条件として、「城の一時的な明け渡し」があったため、氏真はジタバタせずこれに従った。(※なお家康は約束を破り、城を返さなかった。)
しかし、宗盛の場合は攻めてくる木曽義仲の背後から、さらに頼朝が義仲と対決する、という似たような構図がありながら、これを利用できず、ジタバタと戦いを続け、滅んでしまった。
実際、平家=木曽間の和平交渉は行われていたが、平家側がプライドにこだわりすぎ、破談となっている。(ウチ(平家)は天皇を奉じているんやぞ!木曽は和睦じゃなく降伏してこんかい!と突っぱねたらしい。)
もしも木曽と平家がうまく講和できていれば、平家は安徳天皇と共に、再度入京できていたかも・・・。
今となっては詮無いことながら、もし宗盛がプライドにこだわらずに、木曽と和睦できていれば、そして再入京後はがっちり後白河帝の身柄を確保していれば、違う結末があったかもしれません。
武将といえば三成~♪な滋賀県の石田三成CMを平宗盛でパロディしたい件について
このごろネットである武将のCMが話題になっている。
石田三成の・・・CM・・・?
男の子「武将なんてどれも同じでしょ?」
♪武将といえば三成~ 1560(イチ ゴー ロク ゼロ)滋賀県生まれ
お母さん「配下に寝首をかかれないか心配で……」
♪配下にするなら三成~ 1560(イチ ゴー ロク ゼロ)滋賀県生まれ
石田三成「忠義心 ナンバーワン宣言っ!」
豊臣秀吉「さっすがぁ~」
♪石田三成~(やっぱり三成!)
戦犯制作は滋賀県、しかも公式
3月5日のイベントで、会場でずーっとエンドレスで流れていたようです。
当ブログとやってることいっしょや!
今回の俄の大騒動、滋賀県によれば、関ヶ原の戦いで家康に敗れ、冷徹だとか、打算的だとか、一般的にイメージがあまりよろしくない石田三成を、「自分の生き方を貫いた男」と捉えることでイメージアップを図ろうじゃないか、という画期的な試みのようです。
なんだ、私とやってること同じじゃないか!
ネットでの評判も上々で「腹筋崩壊した」とか「脳内リピート止まらん!」とかなりの中毒性がある模様。
というわけで、平宗盛でパロディ作ってみた
こういうのを見ると、私はパロディを作りたくなってしまう。
※以下平宗盛版(文字のみ)をお楽しみください。
男の子(安徳天皇)「平家なんてどれも同じでしょ?」
♪平家といえば宗盛~ 1147(イチ イチ ヨン ナナ)京都府生まれ
お母さん(時子)「夫亡き後の平家が心配……」
♪棟梁にするなら宗盛~ 1147(イチ イチ ヨン ナナ)京都府生まれ
平宗盛「優しさ ナンバーワン宣言っ!」
後白河院「さっすがぁ~(皮肉)」
♪平宗盛~(やっぱり宗盛!)
法皇の「さっすがぁ~(皮肉)」がポイントですね。
特に平家都落ち後は、宗盛の人の良さを院が利用しているとしか思われません。
石田三成CM第二弾は27日公開!
なお、石田三成CMの第二弾が、3月27日に配信決定しているとか!
これも宗盛バージョン作りたい!
《追記》
なんとNHKでも取り上げられている模様。
京都、久しぶりに行きたいなぁ
今週のお題「好きな街」
現在執筆中の「宗盛醒酔記」のロケハンがてら、京都に行ってみたいと思ってます。(実現はいつになることやら……)
実際、新・平家物語を執筆した吉川英治さんも、取材がてらに、京都や木曽など全国を回っておられたようです。
ぜひぜひ私も六波羅界隈を、ロケハンしてみたいものです。
よく「六波羅」と言いますが、実際は平家一門やその家人たちがまとまって住む、団地のようなものだった、といわれています。
忠盛、清盛の歴代当主は泉殿とよばれる館に住み、清盛が重盛に家督を譲ったのちは、重盛が泉殿の主となりました。
清盛が泉殿を出て、福原に引っ越してからは、時子の住む西八条が、清盛の京都での拠点となっていたということです。
これについて、詳しく書いてあるブログを発見したので、参考にリンク貼ります。
なんと、平家一門の邸宅がどのように建ち並んでいたか、という絵図まで見られます。よく見ると、六波羅の南にはあの後白河院の住む法住寺まで!平家と院はご近所さんだったと(googlemapで測ると、清盛の泉殿とは約1.5kmの距離!)
なお、このブログで紹介されている、太田静六先生の「寝殿造の研究」ですが、非常に高いですね・・・。32,400円とは!
小説を書くなら、これくらいは覚悟しないといかんのか(絶望)。